グイドの恋バナ!(後半)

グイドの恋バナ二回目です!!前回は意味不明奇妙奇天烈妄想趣味的な詩を何作か投稿しましたが、今回は通常の文体で書きます!さて、恋バナということで以下の点が気になる方も多いと思いますので初めに記しておきます。

告白した経験:0回
告白された経験:0回
交際経験:0回
性交渉の経験:0回

あ、帰りまーす、とこのブログから離れようとしているあなた、もうちょっと待ってください!!!実はこのQuadruple Zero (四重の零)こそが、ある意味では私の恋を象徴しているとも言えるのです!!
小さい頃から、ずっと恋とは何かを考えてきた気がします。もともと自身のセクシュアリティがマジョリティと異なり、社会全般に対して模糊とした悩みを抱えていたということもありますが、とりわけその中でも「恋」というものは不思議な響きを持って私の脳髄を魅了しておりました。私は誰にも恋したことがありませんでした。そして誰かに恋されたこともありませんでした(少なくとも私の認識範囲では)。それは……

私が
決めたことだったのです

私は「家族」を憎んでいました。今でも憎み続けています。とっても仲の悪い家族。いつも私を縛る家族。しかし私の「家族」たる人たちに憎しみを向けることには、ほぼ何の意味もありませんでした。むしろ私の怒りや疑問の矛先は「家族」制度そのものへと向けられていました。なぜ人は好きになった人と一緒に暮らすのか、その人は異性でないといけないのか、なぜその人と子供を育てるのか…その先にあるのは芥川竜之介の『河童』で語られるあのおぞましい地獄だというのに?もし私が誰かを好きになったり誰かに好きになられたら、私も破滅しかない結婚という道をたどることになるのだろうか?……それがいやで、私は生涯誰とも結婚しない、そして結婚につながる可能性のある恋愛もしないと固く誓ったのです。
沢山の幸せ(そうな)カップルの事例や上野千鶴子さんが提唱された多様なfamily identityの存在を知った今となっては、本当に井の中の蛙どころかチャレンジャー海淵の中の放散虫みたいな思想だったなと思います。それでも私は確かにその誓いを守り続けていましたし、ひょっとすると今でもその呪いに守られ続けているのかもしれません。もともと家族愛なんて感じていなかったですし、引っ越し後は友達と呼べる友達もいなかったので、誰かを好きにならないでい続けることはかなり簡単でした。でもそれがかなり辛かったのだと知ったのは、大学入学後でした。

その子は突如として私の目の前に現れました。私があの日少し遅れて扉を開けると、その子は皆と同じように折り畳み式のテーブルを囲みながら座布団の上に座っていました。その子が私にくれたものは紛れもない愛でした。マリアナ海溝最深部にまで降り注いだ一縷の光でした。私はその子のことがたまらなく好きになりました。でも私はその子とは結ばれませんでした。その子の口からその子はヘテロセクシュアルで、既にパートナーがいると聞いていたから?その子は●●●●●●だから?その子はもうすぐ会えなくなるから?私はだいたいこういう時、3つくらい理由を考えるのが好きなのですが、今では3つとも違うな、と思っています。本当は……

私が
決めたことだったのです

例え上記の3つの理由がなくても、別に私は告白なんてしなかったでしょう。私はだれかとつきあうとか、そんなこともよく理解できませんでした。あの子が私を愛してくれて、私もその子のことを愛することが出来れば、それで十二分なくらい満たされていたのでした。あの子が別にここにいなくても(凄く極端な話、この世界にいようがいまいが)、私があの子のくれたものを思い起して知識をアップデートしていけるなら、それ以上何を望むというのでしょう?(というかそれ以上のよろこびなんてあるのでしょうか?)仮に付き合えたとして結婚出来たとして??私は自分の内にある、ある種の破壊衝動ともいうべき創造力と好奇心が、私を交際や結婚というシステムの中で彼女のもとに安住させてくれないことくらい知っていました。むしろ世の中の多くの人が、自分で作ったわけでもない交際や結婚といったエニグマじみたシステムをすんなりと受け入れている(ように振舞っている)ことが不思議で仕方がありませんでした。私はなんだか自分が狂っているように感じました。アセクシュアル、リスロマンティック、クワロマンティックなどの言葉は幾分か私を慰めました。けれども私は最終的にジニセクシュアル(女性愛者)と名乗るようになりました。何かを感じない/必要としない/分からないという消極的な定義よりも、愛しているという積極的な定義が欲しかったのでしょう。(消極的/積極的と今書きましたが、ここでは完全に両者ともにニュートラルな意味で使っております)ただ、私があえて女性愛者と言わずに知名度の低いジニセクシュアルという言葉を使用しているのは、理由があります。女性愛者という言葉から連想されるイメージほど、簡単には私の愛は語れないのです。あの子=リアルの素敵な女性、に出会うずっと前から、私は傾向として恋愛的・性的に女性に惹かれていることは自覚していました。(誤解の無いように断っておきますが、恋愛や性的にではなく好きになる、ということであれば相手の性に関係なく好きになります)そして同時に、それが純粋にリアルな女性に対する愛ではないことにも……

一番古い記憶は、小学生の頃祖父母の家で、ある画集を見たことです。当時の私は絵画などに一向に興味はありませんでしたが、それでも二つの絵に脳天を撃ち抜かれる思いがしたことを覚えております。一つはフランシスコ・デ・ゴヤの『裸のマヤ』そしてもう一つは……。もう一つは、実は忘れてしまったんです。それでも以下の二点だけははっきりしています。
1: 二つの絵はどちらも女性のヌードであったということ
2: 私は『裸のマヤ』の比にならないくらい、もう一枚の絵の方に激しく興奮したということ
なんで大事な絵の方忘れとんねん!!!とおそらく一生自分にツッコミ続けることになりますが、とにかく当時幼かった私にとって、ヌードという見てはいけないものを見てしまった衝撃と絶望と憤怒とそれらが写像された先にあるヨロコビは計り知れなかったのです。二作目に関して、おそらくこれじゃないか、という目星はついています。それが、前回のブログの詩のタイトルにもなったドミニク・アングルの『グランド・オダリスク』。

彼女は中学の歴史の資料集にいました。でも彼女と感動?の再開を果たしても、私はあの日ほどには興奮しませんでした。その後、他にも何人か別の候補にも出会いましたが、いつも強い確信を得ることはありませんでした。高校生になり絵画への関心が急増するにつれ、わたしの女性画へのアブノーマルな関心はますます顕著になってきました。まるで光源氏が哀れな無いはずの面影を次から次へと女性たちに投影していったように……。これじゃない、これでもない、と思いつつ、私は次から次へとお気に入りの女性画の数を増やしていきました。

私はわけが分かりませんでした。これは恋なのでしょうか?性欲なのでしょうか?絵画に恋/欲情をする、というのは全然普通のことだと私は思います。けれども自分が絵画の女性たちに恋/欲情をしているようにはどうしても思えないのでした。好きになる女性画は確かに世間的に見て官能的なものが多いのですが、フランシスコ・デ・ゴヤの『ユディト』のように必ずしもそうである必要もない。



むしろその絵画にまつわる知のストックが自分にあるかどうか、あるいはその絵画が知を深めるための探求に値するかどうかが重要な気がします。「知」が基準であるとするならば別に女性画に限定する必要もなく、素晴らしい作品なら抽象画や宗教画を見ても同じぐらい興奮します。クラッシック音楽でも興奮しますし、本や詩の一節にも興奮します。素晴らしい作品に出合って興奮するのは誰にでもあるよ、と言いたくなる人もいらっしゃるかもしれませんが、そのような誰にでも起こる興奮とは全く違うものです。こうした興奮が恋愛感情や性的欲求なのかと何度も思い悩むほどに、そして間違いなく日常言語的な意味での恋愛感情や性的欲求からは逸脱している思いつつもこの芸術作品たちから得られる興奮が無ければ私は恋愛感情や性的欲求を理解できないと自覚するほどに。さらにはもっと思考が複雑化して芸術的な体験を悦ぶというプロセスそのものや、恋愛とは性欲とは何かについて思い悩むことそれ自体に興奮を見出しているのではないかと思うほどに。それほどまでに私の愛は重くドロドロと淀んでいるのです。

そんな重くドロドロと淀んだものたちを不思議なコトバで表現したのが、前回のブログです。そこはドロドロとしているので、絵画も数学も化学も音楽もみんなが愛という名のもとに混ざり合って踊っています。まさにそこは生きたリアルな人間がいない美しき愛の世界、Beauty in the Death(死中の麗)なのです。
だから本当は、こんな知の世界の集合体あるいはそれらとの相互作用によって持たらされる瞬間的奇跡や形而上軌跡を愛していると呼べる言葉あればいいのですが……既に皆さん感じておられるように(というかここまで飽きずに読んでくださっている方などいるのか??)、私の性愛を日常言語で語ることにはもはや限界があります。おそらく全ての人間にとって自分のセクシュアリティを過不足なくぴったり表す言葉なんて存在しないですし、それが言語の本質なので仕方がないことでもありますが。それでも多くの人はある程度の誤差は許容しつつ現在社会に存在する言葉の枠組みに甘んじているのに対し、私の場合は“語りえないものは沈黙するしかない”領域を無理に語りたいとするから困ったものですね……。とりあえず、今自分の知っている中で①自分が納得できる②他者に(説明すれば)伝わる、の両者のポイントの合計が最大となる言葉を選択するとなったときに、ジニセクシュアルが浮上してきたのです。

本当は川端康成の『片腕』や夢野久作の『ココナットの実』や三島由紀夫の『仮面の告白』、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」、あとサピオセクシュアルsapiosexual(或いはコグニセクシュアルcognisexual)についても語りたかったですし、「死中の麗」なんてかっこつけちゃったので私が考える「死」の概念の説明も必要かと思っていたのですが…あまりにも長くなりそうなのでやめます。またいつか書きたいです!めっちゃ消化不良感がありますが、それほどまでに私の愛は深遠だと言うことですね(^^;;(ホンマか?)

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